ブログpart2(4/11)
“サッカーってなんて面白いんだろう”って感じる瞬間が、この歳になってもなお、むしろ増えた。サッカーってスポーツの面白さは、きっとまだまだ沢山ある。毎朝目が覚めるとワクワクするし、サッカーを知りたくてしょうがなくなるような夜がある。
昔よりも、サッカーのルールや規則が劇的に変わったなんて事は無い。ずっと昔から変わらないスポーツの見え方が、こんなにも変わったのは、おそらく自分自身が変わったからだ。
知識とは、世界の解像度を上げるツールである。大学でたまたま受けた芸術史の講義の最中、ミレーが描いた絵画の中の小さな黒い点を、教授が教会だと言った時、僕は「この人と自分では、世界の見え方が違う」と悟った。
その後、教授の口からその絵が描かれた歴史的背景の説明がされた。歴史的な背景を知った事で、絵画の右上に小さく描かれた黒い点が教会である事を納得したが、それを知る事がなければ、きっとその黒い点が教会であることなど、僕は一生知り得なかったはずである。もしかすると黒い点がある事にすら気がつかなかったかも知れない。
「同じものを目にした時の捉え方の差に知性は存在する」と感じる瞬間は他にもある。数億円のバイオリンと、数百万円のバイオリンを聴き比べるバラエティ番組を見た時、僕にはその音色の違いが全く分からなかった。その一方で、画面の中で、全く音色が違うとあっさりと正解を当てた芸能人がこんなの余裕だと笑っていた。同じ音を聞いているはずなのに、聞こえ方が全く違う。この人は、僕には見えないものが見えている。聞こえない音が聞こえている。これが教養の差かと打ちのめされた後、同時に羨ましくもなった。こんな風に、クリアに世界を見る事が出来れば、どんなに面白いだろうかと。
世界の見え方の解像度を上げるには、知識が必要である。音楽を学び、経験を重ね、知識を蓄積する事で、僕達はようやく数百億円の差に違いに気付く事が出来る。歴史を学び、無数の絵を鑑賞し、知識を蓄える事で、ようやく絵画の右上の黒い小さな点は、教会に姿を変える。そうやって、膨大な経験に基づく正しい知識を獲得する事が出来た時、世界は初めてクリアに見える。
世界がよりクリアに見えるようになれば、それに伴い、観察の範囲はより細部へと移り変わる。全体の美しさを保ったままに、細部の工夫や技術に気付く事が出来れば、これまで見えなかったものが見え、聞こえなかった音が聞こえるようになる。そしてそれこそが、”鋭い視点”の正体である。
大勢が普段気が付かない部分に考察を巡らせ、異なる角度から意見する人物を、人は”鋭い視点”であると形容する。「言われるまで気が付かなかった」とも思える彼らとその他の違いはおそらく、世界の解像度の差だ。
知識や教養を抱え、世界をより細部まで見ることのできる目や耳を持っているからこそ、人が「気が付かない部分」への追及が可能になる。こやまーるは時々、同じ試合を見ながら不意に、僕が逆立ちしたって出てこないような事を言う。つまり、そういう事だ。
結局、サッカーも同じだ。知識が増え、見え方が変わった。同じものを見ていても、以前とは解像度が違うから、細かい部分の面白さに気付く事が出来る。これからも、おそらくもっと面白さは見つかっていく。
なにも知識だけに限った事じゃない。技術も間違いなくその一つである。目の前の相手が平気になって、思った所にボールが蹴れて、思った所に止める事が出来ば、より多くのリソースを細かな駆け引きに向ける事が出来る。上手ければ上手い程、サッカーは楽しい。
結論。じゃあ、上手くなるしか無い。上手くなって、出来る事が増えて、世界の見え方が変われば、今でさえ楽しいサッカーが、これ以上楽しくなる。こんなにワクワクする事が、他にある筈が無い。一緒に上手くなろう。サッカーというスポーツの見え方を変えながら、魅力の飽和点まで辿り着こう。その為に、学ばなくちゃいけない。
長々と書いたけれど、たまにはこんな回もあって良いかなと。とにかくサッカーを楽しむ為に、世界の見え方を変えていこう。それだけ♪
山口隆之介